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【HSP】 性善説と性悪説について思っていること

皆さんお疲れ様です。

HSPを自認している大学生のすえずです。 

 

今回は、「性善説」と「性悪説」について思っていることを書いていこうと思います。

 

 「性善説とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念」と言われている(Wikipedia参照)。孟子によると、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説だという。ここでの善の兆しとは、他者の苦境を見過ごせない、不正を羞恥する心、謙譲の心、善悪を分別する心の4つだという。一方、性悪説とは、本来の人間の性質は悪であり、それが善になるのは人間の意思で努力することの結果であるという。ここでの、悪とは、罪や悪事という意味ではなく、弱い存在であるということだという。

 

 ここまで、性善説性悪説の意味について書いてきたが、やはり私が納得いっていないのは、「善」とは何かである。性善説によると、この「善」と呼ばれるもの(善の兆し)が先天的に備わっており、性悪説によると、「善」というものを努力によって獲得できると言われている。結局のところ、どちらの説でも「善」というものが大事であり、人間が持つべきものであると主張していると私は思っている。そこで、「善」とは一般的に何かというのが私の疑問である。人間は最終的にこの「善」を得ることが目的であるとすると、「善」の最終形態とは何なのか。ここからは、この「善」に関して考察していく。

 

 結論から言うと、私の考えでは、「善」といのは「人間が本能的には備わっていないが、他人がこれを持っていると自分自身の生存欲求が満たされる理想的な行動」であると考える。人間は、まだ動物として自然の中で、生態系の一部として生活していた時代は、本能に忠実に従って生きていたと考えられる。つまり、自分の生存欲を満たすためだけに生きることができていた。しかし、次第に人間が社会を作り上げるにあたり、社会性といわれるものが、社会を上手くまわすためには必要となった。この社会性を得るにあたり、自分の生存欲だけに忠実に生きることは難しくなったと考えられる。例えば、現代社会であれば、自分の生存欲だけを満たすだけの生活を行い、社会性を身につけなかった場合、周りから孤立し、結果的に死に至ることは想像できる。そのため、現代では、自分の生存欲をおおっぴらにすることはできなくなってしまった。そこで、現代の人間は、自分の生存欲を満たすために、他人に対して理想的な行動、すなわち「善」を求めるようになったのではないかと思う。例えば、上の孟子性善説によると、他者の苦境を見過ごせない、不正を羞恥する心、謙譲の心が善の兆しに含まれていると主張している。他者の苦境を見過ごせないというのは、自分が貧困状態になったときにとても役に立つ。自分自身が貧困になり、どうしようもなくなり、他人のものを盗むともちろん逮捕され、不自由な生活を余儀なくされる。つまり、生存欲より社会性を優先させる必要があるときがある。このときに、他人が、他者の苦境を見過ごさない、即ち、善を持っていれば、自分は生存欲を優先することなく、生存することができる。残りの2つに関しても、自分が社会性を持ち合わせながら、生存していくために他人に求める行動である。従って、「善」というのは、他人に求める理想的な行動だと考える。

 

最終的に、私が言いたいことは、人間は、自分の理想を他者に押しつけ合って生きているということであり、自分の人生を生きるためにはある程度、その理想を気にせず生きることも重要であるということである。これは自分に対する戒めでも在るんですけどね。この「善」というものを身につけようとすればするほど、社会的には立派と言われるが、自分の生存欲を否定することにつながり、精神的につらくなる。つまり、周りの目を気にしすぎて生活してしまい、自分自身が辛くなってしまうということが起こる。しかし、実際にこの「善」というものを完全に身につけられる完璧な理想的な人間は存在しないし、それぞれが欠点などがあり生活している。HSPの皆さんはやはり周りの目というのがめちゃくちゃ気になると思いますが、「善」と自分の気持ちのちょうどいいバランスを見つけ、楽しく生きていきましょう。

 

最後まで読んでくれてありがとうございます。やはり、こういう自分の意見を言う文章を書くのは難しいなと思います。これから慣れていければいいなと思います。

 

また今度